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​長野駅の証言

​竹内 今朝美

 太平洋戦争の末期、平和だった長野の空に不気味なB29の爆音が響き、さらに「信州は山が高く乱気流で艦載機はこない」いう神話も昭和20年8月13日朝からの米軍グラマン戦闘機による終日の波状攻撃によって破られ、終戦へ急転した。当時私は学徒報国隊として国鉄長野機関区(現JR長野駅)で勤務していた14才の少年だった。

 お盆で父が買ってくれた新しい下駄を履き、母の手作りの弁当箱を風呂敷に包んで通勤列車に乗った。この早朝から「大豆島の長野飛行場」が空襲され、私は長野機関区で、あたかも映画のロケをみるような感覚で、美事な米機の攻撃に見とれていた。

 午後になって、鉄道交通の要所である長野機関区にも攻撃の目が向き、私達14才の学徒仲間は逃げ惑うのに精一杯の悲しい銃後の守兵であった。

 形ばかりの防空壕に避難した私たちは、ロケット弾で倒壊した事務所の骨材で入口両側を塞がれてしまい、万事休した。私の脳裏に閃いたのは「東京などでの防空壕での蒸し焼き死亡」の記事だった。

 幸いに両口にいた小隊長と副隊長が木材を取り除き、20名の学徒の命が救われた。柱や板の間から仰いだ夏空と白い雲は今でも少年の目に写った暗い過去として忘れることができない。

「美しい空、生きている喜びをしみじみ味わった長野の空、うまい空気だった」

一難去ってまた一難、助かった私達を待ち構えていたのは、米機の機銃掃射であった。思わずドブ川に飛び込み、身を伏せた。手と耳と目を押え息を殺した。信仰を持っていなかった私ですら、思わず神仏に身の安全を祈り、ひたすら米機の退散を心で念じていた。

グラマンF6F艦上機による攻撃は操縦士の顔が見える程超低空であった。この時、機関区にいた守備隊の兵隊さんには頭が下がった。さすが軍人である。襲い来る米機に地上から機関銃で射撃する崇高な姿は私達に勇気を出させた。(残念ながら死傷された)

 私は防空壕から私たちを救ってくれた恩師である宮尾茂隊長(38歳)とドブ川上流、下流に別れて避難したが、上流に行った副隊長は次のロケット弾で戦死してしまった。

 悪夢のような戦争体験。私達はこの後何度か死地をさまよいながら、ようやく安茂里の台地に辿り着いた時には空襲も収まり、暑い夏の陽が西山に傾いていた。

 私はボロボロになった服、ススと泥で汚れ、汗まみれになった重い体を引きずり後輩を励ましながら信越線を南へ向かって歩いた。犀川の鉄橋を素足で渡った私たちは、燃える長野を振り返って「ようやく助かった」とみな心で叫んでいた。川中島へと近付くと知った人、父母の顔があった。私はげんこつで涙を擦りながら、父母と家へ戻った。急に”お盆下駄”と”弁当箱”を焼失した事が悔やまれた。8人の遺体が焼け野原の機関区から大八車で火葬場へと向かい、見送る人の無い悲しい葬式は、今も私の心に残る。

 戦後は終わり、戦争を知らない人が多くなった昨今、私の1日だけの戦争体験をせめてこれからの人には味あわせたくはないものである。

(当時14歳)

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