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若槻の証言
松岡 明子
私は病院の看護学生であり、栄養食系にあったていました。13日の4時頃、給食準備のため病院西側の給食棟に入りました。蒸気ガマに蒸気が入るのと同時に、そこへ機銃掃射があり、続いて爆弾が落とされました。たまたま給食棟の中心部に落ちた爆弾の破片が私の腎部(お尻の部分)に当たったんです。大変な出血でしたが、病院の中を夢中で逃げ回り、傷病兵に救助されました。しかし、ほとんど処置を受けることができませんでした。薬品庫が焼かれてしまいましたので、消毒薬もガーゼもないわけですね。手術の段どりもつかず、苦しみながら、15日の放送を聞きました。お尻の出血を見守りながら、先生方は「何の処置も出来ないんだ。衰弱してきているから、もう時間の問題だな」などと話されているのを微かに覚えております。
8月28日になりまして、ようやく手術が出来たんですけれども、ほとんど麻酔薬はありません。「歯を食いしばってくれ」ということで、ほんの軽い麻酔で、汗びっしょりで苦しい手術をして貰ったことを覚えております。小指ぐらいの弾の破片が出てきました。消毒が不十分ですから当然化膿し、3月末までに苦しい生活を体験しました。完全に治るまでには2年かかりました。
なお、伏見さんが亡くなられたのは、私より1メートルも離れていないところで、彼女が倒れたのを見ました。その後、看護学生で一つ下の浦野さんは、翌日死亡したことを聞きました。私は大変な重傷でしたが九死に一生を得たわけです。
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