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篠ノ井の証言
笹本 常子
私は当時篠ノ井高女の3年生で15歳。今で言えば中学3年生ですが、勤労動員ということで、篠ノ井にある高梨製作所という所へ働きに行きました。昭和19年から終戦まで約1年間行ってたんです。勉強も全然やれませんから、全員が学校へ合宿して、そこから通ったわけです。仕事をしていて空襲警報が鳴ると防空壕が講堂の近くにありますので、そこへ逃げかくれました。1番私が心に残っておりますことは、13日の空襲のことです。空襲警報が出たので、班長さんから「すぐに豪へ入りなさい」という指示が出て、みんな隊を組んで入っていったんですけれども、入った途端に私達のそばへ白いYシャツを着た男の人が来て、「入れてくれ」って言うんですね。班長さんは、「入っちゃいかん」と大声で手を拡げて入れなかったんです。と言いますのも、その頃、防空壕の中で赤ちゃんができちゃったとかそういうことがよく言われてまして、私はまだ何がなんだかよくわかりませんでしたけれども、男女が同じ壕の中へ入るということは厳しく戒められていたんですね。班長さんは必死で私達を守ってくれたということでしょうか。
その男の人は壕の外側に堀があったんですけれども、そこへベターっと飛び込んで伏せたらしいんです。そこを機銃掃射で狙われたらしく、あとで工場へ帰ってから、班長さんは「やられたようだ」と言っていました。私達が「入るな」と言ったんじゃないんですけれども、何かそれが私の胸の中で40年間、凄くこだわりとなり、いろんな機会がありましても話せず、今日まで参りました。あの時入れてあげていたら………とやりきれない気持ちが今も消えません。
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