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​松岡の証言

​轟 清秀

 第一派の空襲の時、私の家の防空壕には既に六名程兵隊が入っており、しかたなく作業場の部屋に逃げ込む。 

 九時頃に来た第二波の空襲の時、松岡神社境内に隠してあった戦闘機二機を狙って落した爆弾が逸れて、田中浩平さん宅の防空壕の隣にあった桑畑で爆発し、その爆風で防空壕がつぶされた。中には、一家六人が入っていたが、それと同時に近くの山崎久一さん宅の屋根がグラマン攻撃で燃えだした。松岡消防団員数名(分団長 轟金蔵・班長 轟忠美)が消火にかかったが、家より人命の方が大事と、人命救助にかかった。 

 掘る道具も大方疎開してしまったので、素手で掘った。そのため時間がかかり三人の幼児(田中希子九才、貞子六才、進二才)が窒息死していた。掘り出した時には山崎久一さんの家は全焼に近く、手がつけられない状態であった。浩平さんの母は負傷し見るも無残な姿であった。そのあまりにむごい姿を見てひとりの消防団員は気を失ったという。救い出した人たちを一旦、田中倉太(現敏)さん宅に運び大豆島校が避難所になっていたので二台のリヤカーに載せて送り届け、またいつグラマンが来るかわからないので1㎞あまりの道をひた走りに走ったそうである。 

 家族が犠牲となった田中浩平さんは次のように語ってくれた。 

「近所の畑に立っていると目の前に敵機がグッと突っ込んで来たなと思った瞬間、グワンと爆圧を受けた。とたんに家が心配になり駆け込んでみると、その弾は隣の家に落ちたもので直径5.4m、深さ2.7m位の穴があき、桑や杏の木の葉はみな落ちてしまっていた。
…自分の家の防空壕が潰れている…小さい方の三人の子が息絶えていた。何とも可愛そうな様子で…」
 アメリカ機はグラマンF6FとヴォートシコルスキF4Uが10機ほど飛来し、家屋が燃えたのは狙いを正確にするために発射する曳光弾によるものだった。無抵抗の状態の中で電柱の高さ位まで急降下し、悠々と機銃掃射を何回も繰り返していた。
しかし、この空襲が来るのはおおよそわかっていた。7月中旬の日曜日の朝、長野飛行場の滑走路1面にアメリカ軍により宣伝ビラが撒かれていたからである。(当時10歳)

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