僕たちと長野空襲
田畑 好崇
まずはじめに、なぜ僕たちが長野空襲について取り組んだかということですが、一つにこの事実に関する資料があまりにも残されておらず、この悲惨な戦争体験が忘れ去られようとしている今、これから平和を守る上でも、ぜひ明確な資料として残しておこうという考えに至ったからです。
では、どのようにその調査を進めたかという“方法”ですが、僕たちの裾花中学校には学校の行事として“星花祭”という文化祭が毎年九月末にあります。ここでは、各クラスで社会的な問題などを一つテーマに決めて研究に取り組んだり、劇などのステージ発表を行います。当時2年7組だった僕たちのクラスは、ルーム長の大井正孝君を核としてクラスの中の代表者8人を中心に星花祭のテーマを決める為の話し合いを続けました。クラスのみんなに候補を出して貰ったり、担任の傳田先生(現世話役)からもヒントを頂いたりして、いくつかのテーマに絞られました。その中の一つに長野空襲があったのです。そこから話はすぐに進みました。みんなが長野空襲の趣旨を理解してくれて、第27回星花祭の2年7組のテーマは『8.13長野空襲』に決定したのです。
さて、決定はしたものの、誰も正確に調査したことのないものを僕たちが調査するわけですから、当然方向づけもできていませんでした。そこで、とにかく資料を収集することに努めました。まず手始めに、当時の新聞ならなにか載っているだろうということで、長野県立図書館へ行って、S20/08/14付の新聞をコピーしてきました。それが『艦上機長野・上田への初見参』という見出しの記事です。これを読んでわかるのはグラマンF6F型とF4U型の艦上機が5回にわたり銃爆撃を加えたということだけでした。そこで県立図書館や県庁の資料室などへ行ったりして、少しでも長野空襲について載っているものはコピーしてきて照らし合わせてみました。また、長野空襲についてご存知でいらっしゃる傳田先生のお知り合いの方々から、当時の状況などを大まかに割り出し、長野機関区(長野駅)、松岡、緑町、松代付近が被害にあったことや、それ以前に長野空襲を予告したビラがまかれていたことが判明しました。
そこからは、もう、自分たち独自の調査です。被害のあった周辺現場に行っては、隈なく聞き込み調査をして、その被害についての実像や、その他の地域の被害に関しても明らかになりました。一口に聞き込みといっても、数人で数十件もの家々を回るのですからとても大変でした。また、調べていくうちに人によって証言が食い違うこともしばしばありました。
僕の担当した調査は松岡方面の被害ということだったので、ある程度事前に当時の新聞などで調べ、子供3人が生き埋めになって死亡したということを把握していたのですが、聞き込みをしていくうちに飛行場を挟んで隣の川合新田でも被害があったことが浮かび上がって来たのでした。そこで当てもなく川合新田にそのまま赴き、聞き込み調査を行ったところ、なんと9人もの死者が出ていたことが判明したのでした。
やはり聞き込みということもあり、あまり成果を得られなく苦悶していましたが、この時「本当に調査してよかった」と感じました。この事実が無かったことにならないように後世へと残さねばならないと思い、それからの調査にも熱が入りました。他の班でも、中央通りの商店街に「空襲当時どのような行動をみな取っていたのか」を聞き込み調査をした時に、新たな事実を見つけ、みんなで喜びを分かち合いました。
その調査と平行して僕たちの班はもう一つ大仕事に取りかかりました。
この時点まで判明していた被害は松岡の3人、川合新田の9人、長野機関区の職員8人防衛兵3人、長野療養所5人をはじめとする合計40人でしたが、この調査の事が星花祭当日の新聞に載ってから、今回の調査では調べきれなかった事実がたくさん寄せられ、また真相に近付きました。その後、今年になってから、集いを開くという流れになり、様々な方の努力により、実現することができました。
この1年間長野空襲について調査していく中で、長野空襲は私達の身近にあったことなので、原爆の話よりも心に迫るものを感じた上に、平和の尊さも痛切に感じる事ができました。また、遺族の方々や当時の被害を目のあたりにした方々の話を聞くと、戦争の悲惨さをひしひしと感じることができます。そして、彼らは今まで誰にも言えなかった辛さ、悲しさ、恐ろしさを私達に伝える中で、戦争は二度と繰り返してはならないものだということを訴えずにはいられないのです。
長野空襲に関するこの調査を、死者の人数をはっきりさせるだけではなく、この事実に1人でも心を傾け、平和という目には見えない「もの」の大切さを考えてほしいと思います。
(1985年8月13日第1回長野空襲を語る集いにて)