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​当時の担任の記録

『8・13長野空襲』調査から『長野空襲を語る集い』へ

​傳田 紀昭

1 いま、なぜ「長野空襲」か

 いろいろなマスコミの影響などもあって「"連合艦隊"の映画やアニメの"宇宙戦艦ヤマト"などを見て、戦争ってカッコイイこと言って死んでいくイメージ」(田畑好崇)が子供たちの中に植え付けられている。戦争の、とりわけ原爆被害の映画など見ても、"かわいそう""どこかにあった話""いまは平和だからいい"といった感じで、身近なこと、自分のことに中々ならない。"戦争なんて暗い話はごめんだ"友達から仲間外れにされないようにして、面白おかしく過ごしたいという姿勢も見られる中学生。みんなと楽しく、カッコ良く毎日暮らせれば・・・という中学生の、しかも価値観の最も動揺しやすい多感な時期の子どもたちに、社会と自己を深く見つめ、生きかたについて真剣に考えさせたい―――こうした観点から「自分たちが生きる地域の歴史、生産文化活動の中に子どもを飛び込ませ、その息吹や肌に触れさせ」ようとしてきた。とくに、生徒たちが自主的自治的活動として、その問題意識を長時間かけて集団的に発展させることが出来る文化祭(本校では「星花祭」)において、学級全体で取り組んできた。
 こうした活動における地域の人たちとの交流、その生きざまを学ぶなかで、生徒たちの得るものは大きなものがあったように思う。そうした経験と、核軍備拡張競争がわが国をも巻き込む体制で激化する状況から、私の中に「長野空襲」調査への思いが強くなっていた。この思いの背景には、私自身の目撃体験のほか早乙女勝元氏の活動、長水の小宮山公子さんや和田登さんの創造的実践や創作からの十分すぎるほどの刺戟があった。1984年6月の日教組沖縄大会への参加は、私を義務感のようなものに駆り立てた。沖縄の人たちがこだわり続け、語らずにはいられない怨念、心情―――長野空襲の中にもあるに違いないそのようなものに触れさせたい。早く子供たちに沖縄のこと、長野空襲のことを話したいと思いながら私は長野へ帰った。

 「終戦直前に、全市民が体験した恐ろしい爆撃。この全体像はまだほとんどわかってない。星花祭でもとりあげられたことはないぞ。ヒロシマもナガサキも勿論だいじだが、足元のことを知らなければダメだ。今調べないと、知っている人がやがていなくなっちゃうし・・・。」
 私は、子供たちに「長野空襲」調査の重要な意義を訴え、彼らの奮起を促した。学級テーマを選定する委員会は、クラスで出された十数個のテーマを検討し、「”戦争を繰り返してはならない”という願いを込めて取り組もう」と学級会へ提案、「8・13調査」は決定した。

2 ​調査への挑戦

 星花祭ーーー毎年の事ながら、子供達は燃える。
子供達の意欲とエネルギーを結集し、取り組みを成功させるには、全員のアイデアを集約し、方向を打ち出し、役割分担をさせ、みんなを引っ張るリーダー集団が必要である。「8・13」への取り組みが決まると、立候補を主に男女各4名を選出、8名で実行委員会を構成した。

①概要の把握

 青木孝寿氏、小林計一郎氏から、県の公式発表が載っている「昭和22年版信濃毎日新聞年鑑」「郷土史長野」などを紹介して頂き、下調べが始まった。「長野県の百年(山川出版)」「信州の百年(信母)」などの他にも、県立図書館を訪ねて、上野郁夫氏の体験記や、「1945年8月14日(空爆の次の日)の信濃毎日新聞」を見つけることができた。塚田正二氏のお宅へ伺い、冷たい麦茶を頂きながら、8月13日の凄まじい空襲の有り様を委員全員でお聞きした。これらの資料や話を学級へ発表し、共通理解をはかった。

​②夏休みを中心とするローラー作戦

 夏休みを控え、各リーダーを中心に4班が編成され、機関区、大豆島、七瀬と緑町、松代と篠ノ井地域に調査を分担した。父母にも協力の要請を出した。
長野機関区…川中島、竹内今朝美氏の協力を頂き順調に進む。宮尾夫人、小林夫人、篠原国雄氏からの聞き取り。特に両夫人の胸込み上げる話に班の生徒は衝撃と大きな感動を受けた。機関区跡、慰霊碑の調査や撮影などはやり易く早く進めることができた。
七瀬、緑町…調査難航。犠牲者は掴めなかったが爆撃による火災状況など徐々にわかる。
大豆島…轟清秀氏の協力を頂き、松岡にある田中氏宅の悲劇が判明。更に川合新田の山崎氏一家9人全滅の惨状もわかり、小池与一氏から薬莢などを借りる。衝撃と興奮の連続だった。
松代、篠ノ井…篠ノ井は佐藤氏、松代松山町の山口氏、島田氏などの協力を頂く。
 この他にも、日赤、鐘紡、東長野病院へも連絡がつき、概要がわかった。父母、同僚職員からも情報の提供があり、被害の全体像がまとまってきた。最後まで苦しんだのは犠牲者の氏名と年齢の把握であった。とりわけ軍関係の被害は、国立傷痍軍人長野療養所を含め、正確な資料は皆無であった。
 それでも確かな証言、資料によって、長野市内における死者は40名に達することが確実となった。長野がなぜやられたのか、米軍側の資料が無いため断定はできなかったが、飛行場と交通の要衝を叩くのと心理的威嚇が目的だった、というのが研究所を含めた関係者の証言の最大公約数であった。

​3 星花祭のドラマ

 調査結果を構成しなおし、発表するための作業は9月に入ると始まった。
犠牲者一覧表、太平洋戦争の戦況と全国の空襲状況図、市都市計画課作成の大地図へ犠牲者マークの貼布、写真、市民の状態アンケートまとめ、聞き取りのまとめ……等々まとめの仕事は中々捗らなかった。目に見えない歴史の発掘と再構成は困難で苦しいものであったが、衝撃と感動の連続であった。

​①マスコミ

 聞き取りの調査でわかったものか、マスコミ各社から次々と取材の申し込みを受けた。世間の評価に堪えられる自信もなく、担任の私は全ての取材を断った。しかし、9月28日の初日、信濃毎日新聞とTBSテレビがが取材に受けに来た。テレビニュースと朝刊に大きく報道された為か2日目は大盛況となった。

​②反響

 調査に協力していただいた方に案内を差し上げておいたが、特に川合新田と松代の遺族を初めとする関係者の皆さんは揃って見に来てくださり、大変喜んでいた。青木教授、塚田生二氏、竹内今朝美氏らからも評価され、苦労も吹っ飛んだ思いで子供達は喜び、説明にも一段と熱が入っていた。
 2日目、竹内氏からは川中島で「8・13」のため即死した人の新たな情報を頂いた。その後も穂高町、信濃町、東京在住の人からも新情報が寄せられた。反響が大きかったため、「星花大賞(グランプリ)」が取れるかと期待していた子供達は星花賞になり(大賞は該当無し)、めでたさも中位なりといった感じであったが大きな自信を持ったようだ。

4 「40周年、長野空襲を語る集い」へ

 星花祭のあと、「資料集にまとめてほしい」「もう一回、どこか街の中で展示できないか」というような声を多くの方からかけていただいた。研究・調査がまだまだ不完全ということもあって「資料集」も「展示」も足を踏み出しかねる気持ちが強かった。

I「40周年だ」

 1985年になり、塚田正二氏や関係者から「今年は長野空襲から40周年だ。今年こそなにかやりたいものだ」という声をかけていただいた。中3に進級した生徒たちには、秋の星花祭に発表するため、オペラ「真間の手古奈」に取り組み始めていたが、「長野空襲の会もやろう」という反応があり、とくに去年の実行委員会は積極的であった。この状況を見て、塚田正二氏、青木教授、歴教協、昭和史を語る会などから全面協力を約束していただいた。

Ⅱ「40周年長野空襲を語る集い」の準備

  6月の段階で、両教組長支部の後援をえられることになり「40周年、長野空襲を語る集い」の展望が大きく開かれた。「集い」が子どもたちの活動範囲を遥かに超える規模になるため、昭和史を語る会、歴教協長水の中心研究者である岡藤氏に事務局に加わっていただき、生徒たちとの共同作業を進めることになった。呼びかけ人には、篠原国雄氏、青木孝寿氏、塚田正二氏のほか犠牲者宮尾茂夫人恒子氏と「思い出のアン」の作者和田登氏に積極的参加をいただいた。

1・「集い」の内容

 呼びかけ人、事務局の相談で「集い」のねらいと内容をかためた。テーマは、『鎮魂、事実を知る、平和への意志固め』内容は、スライド映写、調査に取り組んだ中学生の報告、爆撃を受けた人たちの証言、講演て"戦争末期の様相と長野空襲の意味"となった。
 生徒の分担は、資料掲示、スライド作成映写、報告、頒布資料作成、受付、集いの司会に生徒が立候補し、それぞれの役割を分担した。

2・「集い」の呼びかけ

 両教組長水支部の協力でチラシを6000枚印刷し、教組全組合員のほか国労、医労協、市職労をはじめ地区評各組合、子どもを守る会、婦人団体へ協力を要請した。被害関係者へはとくに案内を送り、同時に証言をお願いし、松代、川合新田、機関庫関係から4名の証言を得られることになった。長野市長にも招待状を送った。
 信濃毎日新聞が8月2日、この「集い」を大きく報道したことから反響と期待がいろいろな形で伝わってきた。この過程で、遺族の現存地が新しくわかったり、新情報も寄せられたりした。毎年8月第1日曜日に行われてきた国鉄SL、OB会は慰霊法要と総会を8月4日に行って盛況であったが、ここでも「8・13長野空襲を語る集い」をご案内し、大変喜ばれた。成人学級やサークルに参加している関係者の人たちがそこでも参加を呼びかけられたという話も聞こえてきて輪の拡がりを感じた。

3・スライドづくりと再調査

  事務局と子どもたちは、夏休みに入って昨年曖昧だった部分の再調査をかねたスライドづくりを行なった。
「今日はスライドの内容を作るために松代と川合新田へ行った。皆さん熱心に詳しく話してくださった。話し出すと止まらない、という感じだった。1年たってまた来てみて改めて悲惨さを感じた。8月13日は是非とも成功させ、長野にもこういうことがあったんだ、ということを訴えたい。」(大井正孝の生活記録)
 とくに、松代の大内貞夫さん(当時12才、即死)の兄、大内啓造氏は「満州から引き揚げてきたら家が吹っ飛んでなかった。・・・松代町長に、町として空襲慰霊祭をやるよう何回も何回も訴えたがダメだった。母は、貞夫を犬死にするな。是非、公の慰霊祭をやってもらうように、と言いながら亡くなった。今度の"8・13"は初めて犠牲者を慰霊していただくことになり、こんな有難いことはない」と涙ぐまれたのを見て、自分たちの取り組みの重い意味を子どもたちも深く感じたようだった。信濃毎日新聞が終戦40周年の特集記事として長野空襲を取り上げ、『空に誓う平和』『語り継ぐ長野空襲』の連載を8月11日から初め、朝日新聞も"8・13"を報道する状況のなかで資料準備など一層力が入った。

III熱気と参加者の迫力に圧倒される

 40年前と同じように8月13日は熱い一日となった。100名定員の会場は160名の参加者で膨れ上がった。子供たちは早くから会場作りを行い、資料を掲示して開会を待ったが、予“想をはるかに上回った参加者により他の部屋から椅子を運び込まねばならず、大慌てであった。参加者は小中高校生大学生から80代までにわたり、男女の比率は 4:1。空襲を受けたほとんどの地域から遺族が来られ、小中高校の教師や軍隊体験者など多彩で、遠くからは穂高町、小諸市、上田市、須坂市、新潟県堺の熊坂からの人も見られた。会場の雰囲気は犠牲者を悼む敬虐な気持ちと熱気に満ちていた。大人たちからは迸り出るような語り、涙ぐむ参加者、集いは感動的に盛り上がった。生徒達はスライド報告も無事行ない、参加者の発言やアンケートで、自分達の取り組みやこの集いへの感謝も次々に出され、集いの終わった後に大きな感動を語りあっていた。

1松岡明子氏の出現

昨年の調査で、国立療養所犠牲者5名という証言があり、その中に当時看護学生であった百瀬氏の名前があった。再調査の中で、百瀬看護師は死亡ではなく、重傷3ヶ月という新証言が現れ、犠牲者からは除いた。「集い」の当日、穂高町から子供さんを連れて参加した松岡明子氏は挙手して発言し、“私が看護学生の旧制百瀬です臀部に弾を打ち込まれ、麻酔薬がなく、辛い手術であった。”ことなどを生々しく証言して参加者を驚かせると同時に、お元気な姿で参加者をホッとさせた。

2集いのあと

長野市中学校社会科資料『郷土長野市』編集委員会が1986年版から「8・13長野空襲」資料を掲載する。

「長野空襲を語り継ぐ会」の設立が決定。当面の間、資料出版と集いを続けていくことになる。

​5 1年間の取り組み、その成果と今後への課題

 「身近な『長野空襲』に取り組み、遺族の人達と接し、『8・13』の惨状をつぶさに知り、絶対戦争を繰り返してはならないという思いを強くした」と生徒はその後日記に書いている。また、宮尾夫人、小林夫人らが苦しみの中で40年間明るくたくましく生き抜いておられることへの感動を語った生徒も多い。
 歴史学習、とりわけ第一次世界大戦と第二次世界大戦における政治の表現としての戦争メカニズムと、食い止められなかった原因などを中学3年の初めに学んだ事もあるせいか、「集い」への取り組みにも力が入っていた。自分たちの調査や取り組みが、多くの大人をも動かし、犠牲者に対する鎮魂と語り継ぐ輪を広げるきっかけになった事を、「本当によかった。感動した。これからもしっかりと考えていきたい。」と書いた子供も少なくなかった。

​ さて、ここまできて思うことは、調査や発表を通して感性的な受け止めをさらに鋭く豊かにすると同時に、戦争のメカニズムについての科学的認識を深めることへの重要性である。特に、戦争準備の動きを鋭く見抜く力(例えば自由の制限や抑圧、特定国への偏見や憎悪の宣伝、日の丸や君が代の押し付け、天皇制への回帰、靖国や戦犯崇拝、憲法攻撃、軍拡、これらの動きと日本経済の動きとの相関を読み取るなど戦争と平和の観点から捉える力を、社会科教育含め、日常不断に追求する必要性である。戦争準備は勿論のこと、準備に繋がる危険な動きをはっきり認識させたい。

 そうした中から平和への確かな姿勢が育まれるのではないだろうか。

 長野空襲を語り継ぐ今後の活動については、「語り継ぐ会」で考えることになるだろうが、事実そのもの多角的究明、見聞き、伝える活動を多彩に創造的に継続し、平和を考える市民全体の財産にしていかなくてはならないだろう。それらの取り組みに中学生や高校生をより多く関わらせることが平和形成への主体者を育むことに繋がっていくように思われる。

「1985年全国教研レポート」より

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