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第38回長野空襲を語る集い証言

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​〜北澤理一さんの証言〜

子供の頃に受けた鮮烈な思い、太平洋戦争というのは私の脳裏から絶対に消えることはない。
というのも、昭和20年8月13日の朝、当時13歳だった私は、ラジオのある家はつけっぱなしにしろと指令が出ていたので、つけっぱなしにしておいたら、スピーカーからブザーが鳴り、「東部軍情報ただいま小型機の編隊が上田地区にあり、上田長野地区空襲警報発令」という音声が2回反復されたのを今でも鮮明に覚えている。
中央通りの喜多の園跡地(現在玉屋長野大門)の前にある防空壕の上に乗っかって西の空を見ていたら、2機ずつ組んで4つ、8機の編隊が今日のような青空の下を飛んでいた。よく見たら、灰色の機体で、翼が角ばっていたのでグラマンだとわかった。藤屋御本陳に機体が隠れて見えなくなった2、3秒後に物凄い音がした。機銃掃射とロケット弾の音だった。これが空襲だと初めて知った。長野は滅多に空襲警報が鳴らない上に、鳴ったとして直江津の港に機雷を落としに行く単機だけだった。
その後14機見えて、全部1人乗りの戦闘機だった。何度も何度も飛行場の周辺、駅の周辺、機関区にある扇型の転車台も狙われていた。グラマンは12.7ミリの機銃を6丁付けていた。それに対して長野飛行場にあったハヤブサ戦闘機2機は7.7ミリの機関銃が一丁と13ミリの機関砲が1門ついているだけで貧弱だった。
当時、広島、長崎に落ちた新型爆弾が長野にも落ちるかもしれないという噂が流れ、落ち着いたら浅川の方へ姉と母と3人で避難した。山の上から見ていると至る所で火の手が上がる。母に「長野は全滅になるかもしれない」と言われ恐怖したのを覚えている。そこで何日か泊まった。
8月15日の朝に天皇陛下から放送があると言うので、ラジオがあるお宅に集まった。ピーピーガーガー鳴ってるだけで何を言ってるのか全くわからなかった。長野市民で天皇陛下の言葉をはっきり聞いたと言う方は見た事がない。敗戦なったということは後になって記憶されたと思う。
次の日、材木を乗せた軍の車両に乗って長野駅まで戻った。そうすると、厚木航空隊が【継戦】を訴えるビラを長野にも撒いていた。当時私の頭の中はしっかりと軍国少年になっていたので、弟に向かって「戦争まだ続くんだぞ」と言った。しかし、段々腹が減ってきて、隣のうちからご飯に誘われたので、ご飯を一緒に食べさせて貰ったら、もうそんなことは忘れていた。

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​〜石沢正さんの証言〜

私は1940年の8月に産まれ、生後9ヶ月の時に徴兵保険をかけられていました。徴兵で兵隊に取られた時、金1000円を支給するというもの。(今なら数百万)一括払いの242円90銭で契約している。
この保険証書は母が91で亡くなった時に、遺品整理でタンスの中から出てきたもので、もし母が在命中にこれを見つけたら、私は「なんで産まれたばかりの赤ん坊にこんな保険をかけたんだ」と小言を言ったと思います。
父は私が産まれてすぐに亡くなり、歳の離れた兄が1人いるのですが、大学を卒業した後すぐ中国戦線に召集され、最後の召集だったトラフ島で戦死しています。
私の妻の父も戦死しているのですが、彼の遺書を見せて貰った事があります。そこには、自分が出征でいなくなった後、家に残された弟へ向けて自分の家族をどのように守っていくのか細々と書かれている。徴兵というのはどんな事情があれ戦地に招集され、集まらなかったり遅刻したりしたら犯罪者扱いされる。残された家族も働き手がいなくて生活が困窮する。それが当時の日常でした。恐らくそういう中で、歳の離れたまだ若い妻の為に、私の父は私に対して徴兵保険をかけたのでは無かろうかと今は思っております。

長野空襲の時、私は5歳でした。そんな幼子が正しい記憶を持っているのかとよく言われるが、残念な事に、とても鮮明に覚えています。その時、勿論楽しいことはあったと思うが、やはり戦争という記憶が全てになってしまう。なので今、ウクライナの子供達を見る度に侵略者に対する怒りが込み上げてくる。
空襲があった日も今日のように晴れていました。私の父親は長野機関区に勤めていたこともあり、家は七瀬にあり、目の前には空襲された転車台もありました。空襲を受けた当日、父親は大豆島に買い出しへ行っており、私は家族と慌てて押し入れの中に逃げ込みました。機関区への攻撃は朝から午後まで執拗に行われた。ロケット弾の破裂音や機銃掃射の音が聞こえてきました。生後間もない弟は暑さの中、大声で泣いた。するとひとつ上の姉が「そんな泣いたら敵に気付かれる。」とハラハラしていた。それくらい低空でもってグラマンは攻撃してきたんです。結果的に長野機関区(現長野駅)では名の方が殉職した。
空襲が終わり、夕方みんなで善光寺の方へ逃げて行ったら、みんなも同じことを考えていて、そこには長蛇の列がありました。

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