はじめに
戦争を知らない世代の修学旅行コースに広島・長崎が選ばれることは恰好な企画であると思います。ところで遠方ではなく私たちの住む長野市が、敗戦のわずか2日前の8月13日にアメリカ艦載機の猛爆撃を受け、47人(当会調)の尊い人命が失われた事実のあったことを忘れてはなりません。現に遺族の方もおられ、体験者も多数おります。そしてわずかながら戦災の痕跡も残っております。この有史以来の大惨事を今にして掘り起こし、このような記憶を後世に長く伝えるべき形あるものとして編んだのが『長野が空襲された』であり、そこに描かれた内容を若い世代に伝えるべくして作られたのが、このウェブサイトです。どうか、この惨事を学び、後世に語り継ぐ世代が現れることを祈っています。
長野空襲とは
1945年8月13日太平洋上の空母から出撃した艦載機(グラマ ンF6Fなど)が関東地方から上田を通り、早朝から午後まで5 回にわたり延べ70余機で銃爆撃した。
空襲の目的は交通機関の要衝としての駅や機関区を攻撃して損害を与え、飛行場の軍事施設を破壊し、人心に大きな脅威を与えることにあったとされる。
主として長野駅、長野飛行場(現犀陵中学校)、松代、篠ノ 井、若槻などの軍関係施設を狙い、死者は47名に達した。(長野空襲を語 り継ぐ会調査)
しかし、そのほとんどの犠牲者は何の罪も無い民間人であった。
1945年8月13日 長野空襲 での犠牲者47人
①大豆島松岡 防空壕で窒息死 田中希子(当時9歳)田中貞子(同6歳)
田中進(同2歳)
②川合新田 防空壕に爆弾 山崎政七(当時83歳)山崎初太(同54歳)
山崎いち(同54歳)山崎俊一(同26歳)
山崎文江(22歳)山崎よし子(同22歳)
山崎実三(同14歳)山崎和夫(同12歳)
山崎たき子(同1歳)
③長野飛行場 死因不明 大月林蔵(年齢不詳)
新潟から勤労奉仕で来た二名
④長野駅 三回にわたる爆撃 村田正恵(当時51歳)宮尾茂(同38歳)
小林嘉三(同43歳)徳武良平(同38歳)
山口義彦(同19歳)塚田文保(同17歳)
中村登(同17歳)岡田勝太郎(同32歳)
吉田駅員 飯塚常雄(同22歳)
防衛分隊兵 馬場高雄(年齢不詳)
須藤某(年齢不詳)氏名不詳(年齢不詳)
⑤居町 防空壕にロケット弾 上田一等兵(年齢不詳)氏名不詳(年齢不詳)
⑥国立傷痍軍人医療所 伏見千枝子(年齢不詳)湯本ツギ(年齢不詳)
ロケット弾 浦野シヅ(年齢不詳)患者2名(氏名不詳)
⑦国鉄吉田駅 機銃掃射 川越光圀(年齢不詳)
⑧若穂 機銃掃射 小林(年齢不詳)曲尾さん(年齢不詳)
外務省の役人と言われた人(年齢不詳)
⑨松代町御安町爆弾 戸谷晴(当時40歳)伊藤貞右衛門(同60歳)
伊藤てる子(当時55歳)大内貞夫(当時12歳)
片桐けさの(年齢不詳)片桐栄子(年齢不詳)
⑩川中島卸厨 機銃弾 吉村宇一郎(当時28歳)
⑪篠ノ井駅 ロケット弾 高坂なお(当時55歳)氏名不詳(年齢不詳)
場所別死亡者数 『長野が空襲された』より
米軍機が通ったとされるルート
米軍機70余機(グラマン)が上田方面から長野市内に入ってくる。
概ね4時15分から16時5分にかけて空襲が行われる。
(第1波)
午前6時50分頃 -12機飛来
①米軍グラマン12機が市郊外を空襲
②長野飛行場(現犀陵中)を機銃掃射。練習機が10機破壊される。
(第2波)
午前8時半頃 -10機飛来
①国鉄長野駅舎と隣接する長野機関区(現メルパルク長野)にロケット弾命中。
長野機関区はその後3回に亘り銃撃を受ける。
午前9時10分頃 -
②川合新田地区と松岡地区の民家に爆弾を投下。
(第3波)11機飛来
午前11時50分頃 -
①松代町の民家に向けて爆弾を投下した。
正午頃 -
②若槻の国立傷痍軍人長野療養所(現東長野病院)にロケット弾を発射し機銃掃射。
③国鉄篠ノ井駅にもロケット弾を発射するも外れ民家に命中。近隣民家に機銃掃射。
(第4波)
午後1時半頃 -4機飛来、遅れて11機飛来
長野市内西南方面に機銃掃射および爆撃を行う。
(第5波)
午後2時15分ごろ
(第6波)
午後3時半頃 -
①長野電鉄河東線信濃川田駅と同地区の民家や小学校などを機銃掃射。
②篠ノ井駅周辺も機銃掃射。
③川中島や吉田でも機銃掃射。
長野機関区(現長野駅)の様子
空襲を受けた直後の長野駅の様子
空襲される前の長野機関区(長野が空襲されたより)
左の写真は米軍機が撮影し、米国の公文書館に保存されていた。いわゆる機密文書である。アメリカ合衆国政府の業務資料は30年経つと公文書館であるNARAに所有権を移行され一般公開される。よく見てみると、下に英語で「8月13日長野駅もまたターゲットになった」と書かれている。
また、右の写真にある丸い部分は転車台と言って車両の方向を変える機械で、その奥にある倉庫で電車の車体を保管していた。今の七瀬町付近にあったとされている。